演会の概要はこちら
・第9回伊丹市ことば文化講演会「小和田哲男講演会」
http://www.city.itami.lg.jp/SOSIKI/TOSHIKATSURYOKU/TOSID/EVENT/H26EVENT/1401176014451.html

当日の様子はこちら
・ことば文化講演会「小和田哲男講演会」で村重と官兵衛を語る
http://www.city.itami.lg.jp/photoreport/1407052493591.html

小和田先生の、講演に関するブログはこちら
・荒木村重を見直す
http://ameblo.jp/owashiro/entry-11904661508.html

講演まで近くでランチし、第一部を夢うつつで過ごしたまでが前段です。
**************************************************

大河の歴史考証 ウラ話

小和田先生といえば、1996年放映の『秀吉』、2006年放映の『功名が辻』、2009年放映の『天地人』、2011年放映の『江~姫たちの戦国~』、2014年放映の『軍師官兵衛』 の歴史考証をされています。
平成大河黒歴史2作に関わっている先生のお話だなんて、なにが聞けるのかと思いますよね!

大河ドラマは原作付きとオリジナル作品がありまして、当然やりやすいのはオリジナル。
原作の場合、作者がすでに亡くなっていると、「書かれた当時」の歴史事実とドラマ化にあたっての時差で、食い違ってくることがあるのです。
これは明らかに時期がずれていると指摘しても、作者が亡くなっているからそのまま映像化。
『功名が辻』のケース。

『天地人』『江~姫たちの戦国~』『軍師官兵衛』のエピソードもおもしろかったです。
いずれにせよ、大河はあくまで【ドラマ】なのですが、あまり史実とかけ離れたこともできないし、演出家と脚本家プロデューサーは時代劇に慣れているとは限らない。
いくら時代考証で正しい方に修正したくても、主に制作者側の意向で映像化されてしまうのです。
それでいて視聴者のツッコミは時代考証の方にいっちゃうので、 イヤイヤ、大変です。
その苦労が伺えるブログ記事が、これ
・濃姫が本能寺で戦ったのは本当?
http://ameblo.jp/owashiro/entry-11894982294.html
でも、こうして言うべきことはいうという姿勢でお仕事されているからこそ、度々大河の時代考証に選ばれているのですね。

0803伊丹チラシ
講演会チラシと、右側のカラー資料。このカラー資料がとても良くできています。

先生の村重語り

講演の本題は「戦国武将の生き方-官兵衛と村重」です。
荒木村重がどのような立身をしてきたのか、金ヶ崎の退き口のエピソードから。
金ヶ崎の退き口は織田信長の撤退戦で、秀吉が殿(しんがり)に名乗りを上げたことが有名です。
しかし、実際は摂津守護の池田勝正や明智光秀もいて、秀吉は殿軍の大将ではなかった模様。

なぜ秀吉の手柄として今日まで残っているのかというと、光秀は本能寺の主犯、池田勝正は配下だった荒木村重らによってその後池田城から追放されます。
歴史は勝者が作るため、金ヶ崎の退き口は秀吉ひとりの手柄のように書き換えられたわけです。
これ、大事な伏線。

有岡城は荒木村重が伊丹城を天正2年(1574年)に大改修して改名したお城です。
惣構(そうがまえ)を備えたお城で、これは当時かなり進んだ構造でした。
惣構で有名な小田原城でも1587年以降に完成している、そのずっとまえに作られているのです。
惣構の内部には砦を三つ設え、相当強固な作りで、村重は有岡城の堅い守りに絶対の信頼を置いていたようです。

だから、自分がいなくても落城はあるまいと、毛利軍と連絡を取りやすい尼崎城(有岡城よりぐっと海に近い)に移動した。
次いで、神戸の花隈城にも移動しているし、一族を見捨てたのではなく、あくまで毛利との連携に利があるとみての行動だったのではというのが、先生の推測でした。

ところがここで誤算です。
毛利はこの時、大坂湾の制海権を失っていました。
二度目の木津川河口の戦いで織田軍(というか九鬼の鉄甲船)にボコボコにされたのです。
有岡城に戻ることもできず、毛利と連携することもできず、村重八方塞がり。
その有様を、後の「信長公記」に「我身一人助かりたい」と記され、卑怯者とされてしまった。
これはあくまで勝者の歴史観であり、村重の論理は別だった。

村重は官兵衛と共通して孫子の「戦わずして勝つ」を尊んでいました。
官兵衛と違い、兵糧攻めもせずできるだけ人が死なないような戦略を用いていた、情け深い武将だったと思われる。
それが、有事には砦に入ってしまえば町民も守ることができる「惣構」の発想に繋がったのでは、と。

惣構っていうのは、村重の有岡城以前まであまり作られていません。
日本は異民族の侵攻が少ないし、山地が多いのでぐるっと囲うことがそれほど重要じゃなかった。
平城京に京を取り囲む羅城がちょっとあったぐらい。

いやーさすが先生、おもしろかったです。
立ったまま淀みない、実に淀みない。
履いていた靴は、ウォーキング系の革靴と見ました。
0803いたみホール
最後に、惣構の中(いたみホール)で村重の話をすることができて、とても嬉しいと仰っていました。
そうでしょうね~
わたしもとてもおもしろかったです。
ありがとうございました、先生。
この講演のあった8月3日は、ドラマでも村重が道糞(どうふん)として再登場した放映回で、ベストマッチでした。

先生の著作、これ読んでみようと思います。