図書館の新刊コーナーに面出しになっていたので巡り会えた一冊です。
若作りうつ

わたしはこの著作のタイトルだけは知っていました。
たまたまGunosyが配信してきたニュースに著者のブログがあったんだと思います。
自分で購読しているブログには、この方を紹介するようなブログがないので。

・シロクマの屑籠
http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/

著者は1975年生まれの精神科医。
臨床の現場で起きていることを、臨床の外の世界(特にインターネットとサブカル)からもアプローチをしているのがおもしろい。
感じていること、起きていることをきちんと文章化するのって難しい。
わたしはこの方のブログもちょっと読みづらいなと感じて購読はしていないのですが、図書館でタイトルを見かけたとき「あっ」と飛びつき、200ページほどの新書はあっという間に付箋だらけになりました。

序章「年の取り方がわからない」
 どこもかしこも若さ志向

第一章「若作りうつ」に陥った人々の肖像
 若さにしがみつかせる強迫観念
 自己中心的な結婚願望、その袋小路
 家族ぐるみでおかしくなる

などなど、章の見出しの一部を抜粋しただけでも『なんとなくもやっと感じていた』ことがずばっと明らかにされた感じがしませんか。
わたしはしました。
このままでいいのだろうか、なんとなくいろんなことがずれていっている。
それは、高齢者の増加、未婚率の増加、成婚年齢の上昇、出産数の減少といった社会的なこと以外からもずっと感じています。

P45
思春期は5月や6月に相当するような、色鮮やかな季節です。しかし7月や8月になれば春の服装が合わなくなるように、人生もまた、夏の季節秋の季節に合わせて衣替えをしていかなれければ、夏の暑さにも秋の冷え込みにも耐えがたくなるのではないでしょうか。
 にもかかわらず、現代人の多くは年の取り方に無頓着で、人生のギアチェンジについてあまり深く考えません。


どうしてこんなに年の取り方がわからなくなったのかが、第二章です。

戦後、アメリカ占領において日本的成熟がリセットされ、民主化が断行されます。国や地域に縛られず、個人が自分の幸せを追い求める時代。
戦前の価値観から大転換です。
欧米はキリスト教的文脈を背景に価値観の転換が徐々に進行したけれど、日本は戦後ドカンと「昨日と今日は違う世界」のようにがらっと変わりました。
ある程度は個人の自由が行き渡ったけれど、年長者のロールモデルは欧米からもたらされた痕跡がない
というのです。
言われてみれば、そうかも。
新しいシニアモデルが、ない。
アメリカでもすでにこの問題は認識されていますが、日本はほとんど認識されずにいると思う。

ちなみに世代間のロールモデルの欠落は、敗戦とアメリカのせいばかりでもないようで、ドイツの精神分析家が「父親不在」により年長者のモデルがこども世代に伝達されにくくなっていると指摘しています。

P58
そして、キリスト教国と違い日本は老いや死といった運命受容プロセスとしての宗教が、それほど機能していないこと。
今でこそ神社はパワースポットや縁結びなどスピブームにのって台頭していますが、もともと戦前の神道は天皇制と密接に結びつき、戦中は戦争協力を惜しみませんでした。
神社に戦勝祈願する光景を、映画なんかでも見ていると思います。
これによって戦後神道は風当たりが厳しくなり、家父長的制度としてのアイコンは失われた。


著者はいまの幸福の象徴としての神社は、戦後に去勢されて誕生したものだと書いています。
ここはちょっと、呵呵となりました。去勢とはうまいこという!

わたしは日本人の信仰心がないことが、こんなところに影響してくるとは思わなかったです。
でも、実際いまわたしはキリスト教徒の方と縁があり、その有り様を見ているとたしかに一本芯の通った、凛としたものを感じます。
高齢でありながらも、芯が通っている。
その人のこれまでの経験と信条が見事に合わさっているなと、いつもお話していて清々しいものを感じるほど。

とまあ付箋の場所を全部あげていくとすごいことになるので、ページをぐっと進めて
P122 父性由来から母性由来へ
フロイトの精神分析がうまく機能しない例が増えてきたということから始まります。
フロイトの時代は父性の抑圧が神経症の元になるとみなされてきました。
ところがいまは、母性の時代。
父親なき社会が到来し、子育てが各家族内の単一養育者に担われている時代です。

かつてはこどもを叱り社会的な決まりを教えるのは父親や地域社会の役割で、母親は許すこと、あやすこと、承認することでした。
父親に叱られたら、うわーんと母親に泣きつくという構図です。
これは規範意識のインストールと『自分は見捨てられていない』感覚をこどもが身につけるのに調度よかったのですが、いまは父親は仕事に出て家になかなかいません。
となると、母親一人で子育てをすることとなり、叱り役も許し役も全て一人になります。
さながら「唯一神」のごとく。

この項目を読んでいて、書店によく並ぶようになった母と娘の関係についての本の源を見た気がしました。
あの手の書籍には父親の存在が希薄なのです。
わたしも気にしたことがなかったので、これまでとちょっと見方が変わりました。

「捨てる神あれば拾う神あり」の発動しないこどものせかい。
母の怒りは全世界の怒りに等しく、こどもは世界から見捨てられる不安を解消するべく顔色をうかがい、許しを請わなければならない。
しかしこれを「親の子育てが悪い」というのは残酷で、そもそも一人ですべての役割を引き受けるのに無理があるのです。


だいぶ省略していますが、親子関係の感情的なエピソードを挙げずに淡々と分析している姿勢のほうが、わたしには腑に落ちやすくてよかったです。

それにしても自由に憧れ、ムラや国、地域、男女といった軛から開放されたくていまの核家族と都市形成がされてきたのです。
ところがいざその社会になってみると、空気を読む、コミュニケーション能力、誰からも好かれないといけない、ずっとかわいくないといけない、ずっと若くないといけないという、別の格差が生まれ、新たな束縛が発生しています。

これおもしろいと思いました。
わたしたちは集団(社会)において「楽しく自由」では「幸せ」を感じられず、何らかの束縛を生む心理が作用するのではないかと。
自分たちの親やこれまでの社会をみて、「幸せになるには何らかの犠牲がないといけない」と思い込んでいるんじゃないかと。
だから一見楽して儲かっている人たちを妬ましく悪しざまにいい、お金儲けはしんどい事だと言い続けなければ、これまでの価値観(人生)をひっくり返すことになる(ある意味無になる)から認めることができないんじゃないかな。

つまり新しい考え方や仕組みを作るには、まずそれをインストールする容量を自分の中に作る必要があり、さらに新しいOSに対応できるよう自分のス ペック(考えや価値観、固定観念)を知った上でヴァージョンアップしないと、いくら知識を詰め込んだとて動作しないというわけです。
XPマシンにWin8を入れても動かないのとおんなじ。
なんとなく、今の時代の閉塞感はこの機能不全の段階なのだなと思いました。

著者の最後のまとめについては、ここで書きません。
本読むのめんどくさいという方は、著者のブログに“現代人の年の取り方”についての記事がいくつかあります。
入り口にどうぞ。
・『「若作りうつ」社会』を出版しました
http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20140220/p1

それと著者による読者の感想に対してのブログ記事。
・「"「若作りうつ」社会"を読んだ。」を読んだ。
http://www.huffingtonpost.jp/toru-kumashiro/post_6968_b_4856300.html

こういう著者と読者の距離感てWEBならでは。
さすが70年代生まれだ。
アマゾンのレビューより読書メーターのほうが参考になりました。
わたしが書きたかった感想もこっちで投稿されているので、もういいかなと思ったから貼っときます。
http://book.akahoshitakuya.com/b/4062882493

わたしはなんにつけ分析するのが好きなので、読んでよかった一冊でした。