禿げ上がるほどなんやかんや考えていることの一つとして、「かわいいと美しいの違い」があります。

そもそものきっかけは、小学生の時ピチレモン(2015年10月発売の12月号で休刊)を友達と読んでいたとき、
「このボーダーのタンクトップ、かわいい!」
といった彼女に全く反応できず、「シマシマのなにがかわいいの?」と思ったことです。

小さなお子さん独特の「かわいい」は、正確には「可愛らしい」「愛らしい」であって、この場合の「かわいい」とは別次元です。
いま現在日本の「かわいい」は「Kawaii」として海外でも広く認識されていますが、弊害も多い。

そもそもこのかわいいって、メディアひいては男性による女性へのカテゴライズかつ、「こうあれ」という願望だなと。
いつまでもかわいくあれというのは女性の願望ではなく、男性の願望ですよ。
そこには かわいい=幼稚でいてほしいという本音があります。
女が幼い方が、メリットありますから。
花束
30代に入るとこれまでの服選びができなくなり、服難民になるケースがあまりに多いのはなんだろうと思っていたのですが、アパレルメーカーが「かわいい」に甘えて次のステージを構築できていない。
「かわいい」を作っておけばある程度売れたから、冒険しなかった。

そして、アパレルメーカーで決定権を握っているのは、多くはまだ男性。
いまの日本で決裁権のある男性が女性向けアイテムをつくると、多くの現場でダサピンク現象が起きます。
ダサピンクについては前々回に書いています。

 


おしゃれがわからないのは、自分自身のことがわかっていないから/光野桃『私のスタイルを探して』

これは著作の感想を書かれたブログですが、タイトルがすべてを表しています。
30代になったとき、周りのお姉さんたちに言われていたように確かに20代であったときよりも楽になったんです。
しかし同時に、惑いました。

40代不惑の年代と言いますが、わたしは30代だと思う。
収入も仕事もそこそこ安定してきて、いろんなことにお金をかけられるようになるのに、その基準が自分の中にない。
そら服も選べないわ。
ピンクの花束
日本女性は生まれたときから「かわいくあれ」と強制されてきています。
その「かわいい」って、わたしは「消費される」ものだと考えています。
消費するための概念といってもいいかも。

なぜなら、かわいいって記憶には残るのですが、感性として蓄積されない。
美しいは感性に残ります。そして積み重なって増えていく。
かわいいは消費され、消えていく。

かわいいに縛られて生きてきたら、大げさかも知れませんが「なにもない」という状態になって当たり前だと思います。
美しいものってスペックの説明がいらないんですよ。
説明なく、美しいと感じること。
美しいものは自分の中にあるものを晒し、対峙することになる。
だからこの体験の積み重なりが自分の基準。

わたしは特に「美」を通して自分を知りたいから、こう考えるのかも知れないです。
でもあながち外れていないんじゃないかな。
日本のファッション誌面には美しいものがないもの。
ピンクのバラ
「これを身につけたらこんなに良くなるよ」
という質の良さは既知だし、美しいものってそんな説明いらないです。

日本メーカーに圧倒的に足りないのは美の見せ方で、そしてユーザーを幼稚に見過ぎなところ。
そんなメーカーにつきあう必要なんて、ない。
百貨店のアパレルがつまんない理由のひとつじゃないかと。

なお「かわいい」にも長所があります。
それは、廃れ行くもの独特の強い輝き。
時に爆発的に伝播するあの強さは、「美しい」にはないんだよね。
だから余計に、かわいいって消費のための概念だなと思うのです。

11/15(日)朝日新聞朝刊の、「仕事力」コーナーにて脳学者 中野信子氏のコラムより。
加賀藩の文化的な名産品が、将軍家にどんな効果を与えていたのか。
「人の脳では、美しいものを美しいと判断する領域と、正しいものを正しいと判断する領域が同じというデータがあります。つまり、元々人間は、美という非合理性を無条件に心地よく感じるようにできている生き物でもあります」
なるほどね、美は心地よい。
かわいいの時、脳のどこが反応するんだろう。